Yuki Imamura

時間を昇華させる

2024-05-31

私たちはよく「時間がもっとあればいいのに」と思う。もし時間が無限にあれば、好きなことをすべて実現できると。しかし、長い年月を生き続けることに耐えられる人はいないだろうし、それを具体的に想像できる人もいない。もちろん、どのぐらいの時間があればいいのかを結論づけることもできない。

『火の鳥』を読んでそのことを考えた。「長い年月」という概念自体、私たちの想像の限界を超えている。1万年と言われても、それを思い描くのは難しい。

世間では、誰もが時間を大切にしようと説く。この聞き飽きたフレーズには息苦しさを感じるが、なぜ人々は時間を大切にしようとするのだろうか。その理由には主に三つの模範解答がある。時間は有限であること、時間は増やせないこと、そして時間は平等であること。この答えは確かに満足のいくものであり、あまりに当たり前で説明するまでもない。しかし、最近私はこの考え方に少々甘さを感じるようになった。

実は時間というものは増やせるし、平等でもなく、初めから無限にあるということに気づいた。それどころか、それほど意識していく必要もないのではないかと思い始めた。

確かに時間はこの世で最も高価なものの一つであり、最も高い複利効果をもたらす。時間を味方に付けることが、あらゆる物事を解決に導く。とりわけ私たちが生きる資本主義社会では、貨幣を通じて時間をやりとりしていると言える。それだけでも時間の貴重さは実感できる。

近年では時間対効果(タイム・パフォーマンス、タイパ)と言われることもあり、とにかく効率の良い時間の過ごし方が重視されている。そんな意識を持ちながらも、TikTokやYouTubeにハマって抜け出せないのだから皮肉である。

時間は有意義に使ってなんぼであり、その使い方は千差万別である。ここで議論している有意義な時間の過ごし方とは、発展や今よりも良いものを求めるための時間である。

このとき、着実に続けて取り組むことはあまりにも軽視されていると考えた。実際には非常に重要であり、それは昇華を意味する。

積み上げれば積み上げるほど動きが鈍くなる気がするが、継続することや着実に前に進めることというのは、単純に積み上げるイメージではない。それは自分の中で咀嚼して自分の一部にしていくことだ。

これには物質的な容量は必要ない。したがって、これは圧縮ではなく、昇華と呼ぶべきだと思った。それは自分に新しい何かを追加していくことではなく、自分の中にあるものを別の何かへと変化させていくプロセスである。

つまり、物体Aから物体Bに変化させることだ。今ある自分の一部(物体A)は未来の一部(物体B)の延長線上にはない。これが昇華だ。1日が過ぎれば2日になる。1日目と2日目では異なる何かになっている。だから積み上げではなく、別のものへと進化することだと言える。

複利効果があるので、昇華された物質はさらなる昇華に利用される。物体Bが物体Cになる。このときさらに洗練され、自己複製のような性質も持つ。あらゆる場所に広がり、伝わっていく。

直線的に見えて指数関数的なのだ。面白いのは、最初は変化が少なく、周りから見たらほとんどわからない点だ。だが時間が経つにつれて飛躍的に変化していく。それは今現在にも起きている。

時間を考えるとき、直線的な連続性を意識しがちだ。確かに、現実はそう見えることが多い。しかし、それは自分が何かをコントロールできると考えているからであり、必ずしも連続しているわけではないと思う。時間が連続しているというのは、線になっているということだ。しかし、私が思うに時間は線でもなく、点の連続でもない。時間は点そのものであり、連続性はなく、現在があるだけだということだ。

時間の複利効果によって、現在をより高い価値へ、つまり増やすことができる。その昇華度によって、時間は平等ではなくなる。点は始まりでもあり、終わりでもある。つまり、点があるだけで実は時間は無限にあるのだ。点という今、小さな破片が無限にある状態。それが時間を昇華させることだ。ここまで来ると意識することすら必要なのか疑問に思え、敏感になりすぎていたのではないかと思えてくる。

また、時間が無限にあると感じると、怠けてしまうような気がするかもしれない。NetflixやTikTokにはまりやすくなるかもしれない。しかし、忙しいほど時間が無限であると思ったほうが、可能性が広がるのではないかと思う。切羽詰まっていればクリエイティブな発想力は失われる。脳のワーキングメモリーには余白が重要だ。

時間を管理するという言葉には、時間を支配できるという前提がある。ほとんどの人間にはそんなことはできないし、支配できるのは周辺のものではなく、唯一自分自身なのではないだろうか。

時間を昇華させる方法は、過去でも未来でもなく、現在に集中することでしかない。現在に集中し続けることで、結果的に未来はより良いものになる。原石はすでに私たちの目の前にある。だからこそ、逆説的に時間を気にする必要はないと考えた。タイパという言葉の通り、多くの現代人は時間を気にし過ぎている。

何より時間を有限だと思えば思うほど、未来に生きがちだ。

スケジュールで2時間を確保すれば、その2時間で集中的に物事を終わらせようとする。管理しようとするなということではない。時と場合を選ばなければならない。単純な作業には効果的である。しかし、創造的な仕事に対しては、昇華度を損失していくことになる。時間制限があるなかで良いアイデアが出てこないのは多くの人が体験することだろう。

わかりやすいのは何かに没頭している時だ。振り返れば、速いとも遅いとも思え、一瞬とも永遠とも思える。あの不思議な感覚は、時間という概念を抹消する。没頭することで、私たちは時間の存在を忘れ、ただ目の前のことに集中する。それが本当の意味での時間の昇華である。

ほとんどが凡人であり、日頃から何かに取り組んでいない限り、能力を発揮できない。たまたまうまくいく日があっても調子に乗ってしまい、平衡感覚を失うことがある。10年後の未来を描くことはわくわくするが、それが過大評価されると現実は味気ないものになる。理想と現実のギャップにも萎える。

もしそう思っているのだとしたら、現実に生きていないと思った方がいいと思っている。そういうときは、すぐに目の前の問題に取り掛かるべきだろう。何か能力を発揮するには、その能力を日々鍛えていく必要がある。

未来は重要だ。そこには希望がある。だが、北極星のように、それは指針になるが目標にはならない。目標にしようとすると道が見えなくなってしまうからだ。それを思い描きつつ、考えすぎず、足場に集中することが大切だ。どの時代どの場所、西洋でも東洋でもバランスの重要性は問われてきた。ここでもそれは例外ではない。

時間を昇華させるのは、とにかく生き抜くことである。日々、毎日をどう過ごすかでしかない。それは単純な積み上げに見えて、昇華というプロセスであり、その先には必ず飛躍的な何かが待っている。