2024-07-10
6月に26歳を迎えた。
25歳は私にとって一つの大きな分岐点だったが、時間が経てばそれもまた一つの通過点に過ぎなかったことを実感する。毎日、自分の内側で葛藤し、時には苦しみながら、過ごしてきた結果なのだろうか。最近は日々の考えが確信に変わる瞬間に多く立ち合えているように感じる。
気づけば、いつの間にか自分自身の哲学や思想を言葉で表現できるようになり、その輪郭がより鮮明になってきた。その中でも一番の代表的なものが志、心に決めた強い意志である。
25歳で心に決めたこと、それは「興」だった。即ち、素直に楽しいと思うことで自ら興し続けること、である。
「興」という字は、文字通り面白い。「興す」という新たに何かを始める意味、盛んにする意味もあれば、「興味」といった面白さや楽しさの意味もある。炎のように激しく情熱的でありながらも、川のようにゆったりとした風情や品格がある、そんな漢字である。
出会った経緯までは記録していないが、恐らく出光興産の「興産」の字から調べていったのだと思う。自分の考えが一文字で言い表せたとき、ピタリと嵌った感覚を覚えた。
そうやって興したことによって、文明と文化の発展という使命を全うすることは、実に面白いじゃないかと思ったのだった。
この年で、やっと一人では何も成し遂げられないことに気づいた。そして育てること、継承すること、残すことなど一見すると年老いてからの仕事のように見えるが、実は初めから極めて重要な要素を含んでいることにも気づいた。
これらは長い年月が必要だからこそ、むしろ今から十分に実践すべきであると考えた。自分が何か満足した後にやろうとすると、遅すぎる。それは自分が人生の主役であり、いつか自然に世代交代が起こるという誤解によるものだろう。
目立たない部分はなかなか注目されない。しかし、生活に必要不可欠なインフラも、目に見えない場所で私たちの生活を支えている。その点、皆が主役にならなければならないという考え方は、ある意味で誤解を招く。
一人一人が〈自分の〉人生の主役であるには違いない。それを高々に訴えることは大いに素晴らしいことだが、主役だけが価値を持ち、それ以外は劣るという認識は、何か勿体ないような気がしてならない。支援者やサポート役といった脇役でいることは、世界において、また互いにおいて重要な役割を持つ。
舞台を思い描いてみればわかる。主役を支える脇役、照明、音響、衣装、美術、小道具、そして舞台監督、それぞれが欠けてはならない重要な役割を持っている。社会も同様に、私たちはそれぞれの役割を持ち、それが合わさって成り立っている。
商売をやるときでさえ、主役は私たちではなく、その価値を享受する人々である。
当然のことだが、それに気づくには心からお互いを尊重しなければならない。
私は自分自身が象徴的な希望になることを望んだことはない。それよりも、希望を次々と伝播させていくこと、即ち、「希望伝播」という考え方を中心に据えた。これも25歳にしてようやく掴んだ考え方だった。
それは夢やビジョンなど隣人が持つ希望を見聞きして、触発された人々がまた自分なりの希望を持つことである。その希望の連鎖反応をあらゆる時空で生み出すことが、真に偉大な仕事である。希望の連鎖が広がることで、社会全体がより良い方向へと前進していく確信がある。もちろん、それもまた一つの興である。
私たちは皆でより良い未来を築くことができる。その過程で、主役であるか脇役であるかはそれほど重要ではない。重要なのは、周囲に希望を伝え、それらを次の世代へと繋いでいくことだと考えている。
崇高な目的を追求しているわけではなく、単にその方が楽しいのではないだろうか。
そのためにできることは何か。やはり前進あるのみ、結局は続けていくしかないという結論にいつも至る。
素直に楽しいと思うことでなければ、続けることはできない。興無ければ、続無し。そんなことを思い、興を志す。